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2008年09月21日

秋の日にはエッセイ

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 講師いわく。
「みなさん。描写というのは記憶です」
 みなさんが今まで体験したことでしか、物事というものは描写できません。
 太古から言霊というように、どこかから借りてきた言葉というのは、その言葉以上にあなたのことをうすっぺらいものだと相手に伝えてしまいます。

「では、どうしたら描写を磨けるのか?」

 心に思い描いてください。幼い頃から、大人になるまで、人生には幾つかの区切りがあったでしょう。
 その区切りの中で、人はそれぞれ生きている等身大の世界地図を持っているはずです。
 目の前の真っ白な紙に思い切りそれを書き込んでみてください。絵でもいい、記号でもいい。

 どうです?

 今まで、思い返しもしなかったようなことが、次から次へと頭の中に鮮明に浮かんでくるでしょう。さあ、落ち着いている暇はありませんよ。

 この二度目の体験を書き記すのです。文章作法や構成に拘っていては、この体験はすぐに終わってしまいますよ。
 そんなことはあとから幾らでも手直しできます。

 さあ、書きましょう。
 それとも、こんな素敵な体験が、またしばらく数年の間、あなたの骨髄の隙間に隠れこんでしまうのを、手をこまねいてみている方がましだとでもいうのですか?


       「小説書きのドリル」著:僕 一人より




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 記憶の中の物語を探るというのは、思いのほか大変な作業だ。
 たとえば、それは森の奥に滾々と湧き出る泉に、唇を触れさせ、一思いに飲んだその清涼感を、臓腑の中から探る作業だとも言える

 僕は頭の中に地図を描く。
 5歳のときの地図だ。
 その時僕の持ってた世界は、とても広かったが、線路の向こうまではいけなかった。

 今にして思えばちっぽけだ。

 大人になってからも、その前からも、その場所に戻ってみたことは何度かある。

 そのたびに感じる違和感というものは、どこかこう、誰にでもあるんだろうが、こんなにもちっぽけで窮屈な場所だったんだろうかという、めまいにも似た軽い疑問だ。

 多分それは正しい。

 僕の記憶の中の地図が鮮明にそれを証明している。

 この場所は現実であって、現実ではない。

 ルイスキャロルが語ったアリスの話が、御伽噺だとは誰もが知っている。
 でも、そんなものは嘘っぱちだと非難することはない。

 穴に落っこちて、戻ってきただって? バカな

 そんなことを言う大人を、少なくとも創作に従事する人間は心に飼ってはいない。
 そっちのほうが辛いから。

 だから、僕たちは幼かった頃暮らした場所の現実の寸法を前にして、それを受け入れることはないのだろう。

 今現在持っている身体の腰にも満たない目線の高さで過ごし、歌い、見つめていた世界。その記憶が、現在の世界のありようを否定し、それに対抗するかのように心は騒ぎ、そして、いつしか僕の口からは、物語が零れ落ちるのだ。



 
© 早浪討矢 | Comment(0) | 日々のこと
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